変わりたい「この私」はどこにいるのかという問題

柄谷行人は、探求2で、レヴィナスハイデッガーを引いて、次のような考察をしている。

レヴィナスが批判しているのがハイデッガーであることは明らかである。

ハイデッガーは、主体(主観)というような実体を否定して、無名の、かつ共同体存在としての実存に向かう。それは、いわば、実存者(存在者)から実存(存在)への道である。それに対して、レヴィナスは主体の「実体性」を回復しようとする。

それは、実は、実存が固有名を与えられることに他ならない。重要なのは、実存のこの実詞化が、他者によって命名されるということによって可能になるということだ。

それは「共同存在」ではなくて、「社会的」な存在なのである。ハイデッガーにおいても、固有名または命名の「社会性」が消されてしまう」

 

ちなみに、皮肉なことだが、ハイデッガーのそういった匿名的でありながら、無名の共同体存在としての実存を示したことは、「ハイデッガー」という固有性を表わしていると、私的には思うのだが、それはともかくとして、例えば、我々は長嶋茂雄をいやというほど知っているが、わざわざ彼は「ミスター」になる。命名されて存在しているように、自明のことと知っているが、彼は、単なるプロ野球選手の長嶋茂雄から「ミスター」として、改めて存在している。こういった原理を、共同体に依拠せずに存在するとき、はじめて「名刺」のように、社会的な存在へと人はなってゆくかのように見える。しかし、我々が「ミスター」と呼ぶとき、「それを知らないものたちは」やはり、誰かしらない。命名もまた「共同体」を依拠せずには居られないということである。

野球を知るものにとっては「ミスター」は、まぎれもない「長嶋茂雄」だが、野球をしらないものにとっては、誰かは分からない。こういった時、とくに日本において「命名の」社会的存在の依拠とは、必ずしも当たらないことは、当然のように分かる。「ネットで有名だ」としても、「ネットで有名な人間」など、いくらでもいる。そこには、代って変わる自分など、偏在していることを裏付けているし、そこに「愛称」があっても、共同体としての認識である以上は、「変わりある自分」はどこにでもあるということになる。

いわば、ネット社会においては、このような「命名」による原理は、必ずしも働かないことは、目に見える。レヴィナスを引いて命名によって固有性を獲得し、共同体に依存しない形での「命名」の出現など、どういった例を考えられうるだろうか、というところに、「この私」の存在の手掛かりがあるように思える。

例えば、ドストエフスキーラスコーリニコフは、罪と罰の作中で「なにをしているか」とどやされたとき「私は考えている」とうそぶいて見せる。これは、自律的な思考を張り巡らせて生きているという、思考の固有性=ラスコーリニコフであることを、示しているように見える。彼は外観上は学生という体面を保っているものの、体面上は社会的な存在ではない。いったい、彼は何者なのか。彼は、自分は考えているものと自称する。誰も、そんなことを真に受けない。儀礼的な社会においては「なにもしていないもの」は、いったい何者なのか。彼は、そういったところに生まれるところでラスコーリニコフなりに考えているというのだ。はたしてそれは、本当に「自律的な思考=実体」であろうか。私たちは、彼について、「実存」の手掛かりを見つけたかのような錯覚をしがちである。

彼は「社会的」である、と私は思う。彼は、実体(主観)に依拠しながら、共同体存在としては成立していない。なにも根拠としていないように見える。その思考自体も、自身によってもなお懐疑的、不信、あるいは確信を「揺れ動いている」それは、よく「心理描写」と呼ばれる代物だが、彼は、そういった自律的思考をしているように見える。悪く言ってしまえば独りよがりの、地下室の住人いわく「おれは病人である」という確信めいた相対的な見方には、「よりどこのなさ」という点では、むしろ、反社会的である。ゆえに、社会的な自律性を「根拠がない」ことによって保たれているともいえるがそれは間違いである。狂気の水準としては、地下室の住人のほうがよっぽど「病態」であるのは言うまでもない。

次のような考察がある。

ソクラテスの対話が、非対称的でありながらなお「共同体の探求」が可能であるのはなぜかを考察した。いうまでもなく、それは対話する両者が、同一の言語ゲームに属してるからだ。弁護士と検事が法廷の規則を共有しているように。」

つまり、

「白痴」であるほかないような地点が、「この私」にはあるともいえる。ラスコーリニコフの一見独りよがりで、社会に属していないかのような「思考」とは、結局は、理性=コード性を有しているがゆえに、どこまでもラスコーリニコフのような存在が社会的に作中認められないかのような存在としても、読者とラスコーリニコフのような「対話」が潜在的に存在しているということになる。理性を共有するものにとって、ラスコーリニコフほど、分かりやすい人はいないのだ。ここには、狡知的な犯罪や思想があり、フロイト的な分裂病的「非理性」は存在しないと言える。

重要なのは、次のところである。

分裂病者は、感情転移してこない。彼らは≪他者≫である。そのとき、彼らを「ナルシシズム神経症」とよぶのは、本来感情転移(同一化)するはずの者がそれを拒否して背を向けたというのにひとしい。それは、他者の超越性(外部性)を内在化(同一化)することである。」

ラスコーリニコフ的な人格において、同一化は激しいし、まだ、どこか人と繋がっていたいような情けもたくさん存在する。彼はアウトサイダー的な理性による思考を思わせながらも、なお「実存」として実体として、存在しているようで、していない。最初から最後まで、どこまでも同一のコードで存在しているように見える。重要なのは、外部性を内在化する過程であって、初めてそれを認めるのは、学もないソーニャとの接触時とみである。個体としてはラスコーリニコフは労働していないもののまだ、社会的で、外部性を認めない「自律的な思考」の持ち主であったが、ソーニャとの遭遇で、初めて超越性(愛めいたもの)を認めるようになってゆく。だが、そこで、ラスコーリニコフは、はたして外部性を「外部のもの」として関係を維持できたかは、確証が持てない。彼は「同一化」しているようにも思える。つまり、ソーニャと自分を重ねてもなお、彼は、やはり最終的に「自らを司法に委ねる」からだ。ラスコーリニコフは、悲劇的にも最後まで「理性的」なのである。ソーニャとの邂逅にも、まだ外部は見当たらないで、どこか社会的なコードに自己の存在を他律的に委ねようとしているのである。

いわば、「この私」の居所とは、そのような他力によってなお自覚しるような「私」のことではないことは明らかなであるようだ。

「この私」の自覚とは、病者=非理性を理性的に恣意的に見るだけでは能わない。それは「結果論として」他人に発見されているうちにある。理性と知性を見つけた人間にとって、「病者」との関係は「社会的」であるほかない。

しかも、そこにこの私と「病者」との同一性、ナルシシズムは起こってはいないとしても、やはりまだ、社会的であるといえる。ならば、もし、社会的な存在と言えるのであれば、もはや、「白痴」であるほかないという結論になる。この私とは無論、白痴なのである。それが、変容しようとしている、変わろうとする意志さえ、能わない、白痴(実存)というものであろうか。だが、ここで問題が生じる。「われわれ」が白痴を発見するとき、それは結局は「共同体存在」であるということだ。もし、社会的な知的水準に合わせるのであれば、それが「狐の霊」といっても「分裂病」といっても、「白痴」は結局は、社会的なのである。

私なりの結論をいえば、結局、「この私」など、夢のような存在だという他ない。いわば、「この私」とは夢のことである。それを、変容するすべなど、どこにもない。

最近、文章力も思考力も、鈍ってきたような気がするので、文章を書くこと、頭の体操を兼ねて、自己満足で書いてみたいと思う。テーマは中上健次

 

中上健次ほど、肉体的かつ知的な作家もいないが、そこには、ある種の欺瞞も潜んでいないのか? と思っている。無論、失敗に終わる考察かもしれないが、なるべくウォーミングアップも兼ねて綴ってみたいと思う。

福田恒存は次のように言っている。

「ヨーロッパにおける絶望は、社会連帯感にたいする疑惑だけに留まらない。かれらの精神は、人間の社会性、およびそれを支えている精神の制御力に疑いを持つと同時に、それなら、そういう社会性や制御力を破壊してくるどうにもならない肉体的な情念を信頼しているかというと、じつはそれさえ信じていないのです」

こういった観念は、一見、ペシミスティックにも見えるが、「誠実な思考」の元における、現実認識だと思っている。人間の実像にほど近いものではないか、ということだ。

ここで、福田でいうところの「どうにもならない肉体的な情念」というものは、一般、通俗的に言うと、社会的な規範や「常識」に捉われない掛け替えのない人間主体のもの、欲求を根源とした人間性を喚起、打破するものとして、しばしば社会活動家や批評家に「ウケ」の良い考え方であると思う。H・ミラーにとっては、それは「自然な性」であると思う。

そのような人種にとっては、社会や政治的達成とは「うわべ」だけに過ぎず。その場合の「愛こそはすべて」というときの、その愛は「かけがえのないもの」であると夢想されているが、本来は、人間にとって、愛こそ不信の裏付けであることは言うまでもない。(無論、H・ミラーは身体の情念や「愛の観念」に逃避するようなことはしていない。彼にとってはあくまで、性ことが根源である)

こういった批評性は、常に、「現行社会を裏付ける、共犯性」として指摘されうるものであると認識している。要は、その愛も常識も達成でさえも「現行の社会を根拠にした、あるいは下支えされたロジックである」ということである。もっと言うと、潜在的には、現行社会を補完するものであるということだ。

あるいは、別の視点がある。合理性に徹して人間的にも社会的にもよりよく生きようと思った人間が、結局、言葉や思考では説明のできないこともしばしばあることは自明だろうが、実際、その自明を人はなかなか自覚しようとはしない。だが確かに「心理を越えたものの影・畏怖する人間(柄谷行人)」あるいは、「自意識の球体(小林秀雄)」のように、それを自覚した人間の前には、なにか、人間の合理的認識の先に、説明のつかないものがあると認識されるにいたると思う。それは「神」でも「他者」でも「天皇」であっても、似たようなニュアンスに響く。場合によっては、それは「肉体」なのだ。

ある種のロマン性が「肉体的な情念」に信頼されるということは、優れた批評性を持つ者でさえも陥りがちな倒錯であると思っている。それは一種、教条主義と反しているようにも思え、オカルティズムから離れているようにも思えるし、科学主義に陥っていないという点でやはり「ウケ」がよい思考であると思う。21世においても、よく多い。通俗的な話に置き換えれば、人生に躓くと「身体を動かしたらいい」という考えは、よく、ある。

福田恒存の引用は以下に続く

「かれらにあっては、精神を否定するものは、やはり精神です。自意識過剰を否定するものは、やはり自意識です。それに反して、フォークナーやヘミングウェイは、肉体とかその情念とかいうものを信じております。」

こういった指摘は正当だと思われる。ここで、ヘミングウェイは関係ないだろうが、フォークナーとは、中上の作家活動の上で重要な存在であることはいまさら言うまでもない。だが、留保すべき点は、中上もまた「自意識において、肉体の情念を信じる」という遺伝子は、受け継がれているのではないか、ということだ。

中上の著作、灰色のコカコーラで、村上龍が珍しく「感想」を述べている。

村上龍は、灰色のコカコーラ(単行本「鳩どもの家」)のラストシーンで、「血族」と「マイルスデイビス」のためにドラッグを飲み込むというシーンを称賛している。

ここに潜んでいるのは、その血族だとかいったしがらみの解放先、あるいは欺瞞に満ちた逃げ口としての「身体的開放」が潜んでいると思っている。こういった一説は、枯木灘でも、執拗に反復される。それは、労働、土を掘り起こすという作業の反復によって、しまいには、土と交接しているかのような錯覚を、心地よく感受する秋幸が存在する。その点で見るのなら、肉体を「毀損」するような金原ひとみや、村上龍のような、身体改造を施すような作家のほうが、「誠実」に見える。彼らは、身体を神聖視していないという点では一歩進んでいる。

常々、自意識をスルーするための一見現実的な開放が「肉体」だとか、「薬物」などのケミカルな解消によって表わされるのが、中上における教条主義とオカルティズムと相反するような「潜在的要素」として散りばめられているということは、個人的には、欺瞞と映ってしまう。その血族の果てに「自殺」をしようと「殺人」を犯そうと、それを「末期の眼」で見ようが、虚ろな醒めた現実感覚で描き切ろうとしても、そこには根底の「ニヒリズム」との共犯関係も潜んでいないとは言い切れない。私にとっては、中上は、一見、科学的、肉体的に見えるその存在は、やはりヘミングェイやフォークナーで言うところの、肉体的な化学的な情念と合理性への「信頼」が根本に潜んでいるような気がしてならないのだ。

柄谷行人は、著書・畏怖する人間で、大江健三郎と安倍公房に潜む「欺瞞」について、述べている。大江健三郎が、「首相」を殺したという事実と「犯人」という相関関係の中で、犯罪者の側に沿って描くということ、そこにこそ、民主制が潜んでいると触れている。その犯罪者の「内面に入り込むようにして書く」ということに触れて、柄谷は次のように言及している。

「首相だけではない。率直にいって、この私も「死んだ学生の内面」にはいりこむなどという傲慢なことはいえそうもない。もしそうすることができたとしたら、「民主政治の実現」どころではなく、人間そのものになにか根源的な変容が生じていなくてはならいはずである。」

ここで、大江は、「想像力」を要求している。柄谷は、そのような「人間が入れ替わってまるで他人になったかのような想像力」について、懐疑的な立場をとっている。これは、安倍公房への批判とも同様である。安倍公房は、人間の根源を考えるとき「根」ということばを使う。安部公房は次のように言っている。(畏怖する人間より)

「そういう現実の中で「どこに根があるのか」という問いをすぐに発したがるけれど、「根なんかもともといらないんだ。根があるという発想は歴史的にある段階でつくられたものに過ぎず、どこに根があるんだという問いを我々がもつこと自身、古いものに浸されているんだ」というところまで飛躍しにくい。そしてすぐに代用根をどこかでひたすら見つけようとする。しかし、それが代用根である限りみんな嘘だということ。」

こういった安部公房の指摘は、一理あると思う。柄谷行人は、この指摘を、「都市生活者におけるほっとした身軽さ」であって、欺瞞であると附すが、むしろ、この部分は、中上にも当然あるところだ。柄谷は、ここで大江と安部を批判しながら「暗に中上を肯定していること」に読者は気づかなくてはならないと思っている。

柄谷は、都市生活者が「当然通過しなくてはならなかった闘争」から逃げている、そして、代用根を見つけるような根源の相対化と否定、逃避を鋭く指摘しながら、大江氏のような「想像力」つまり、他なる人間になってしまうような「狂気」を皮肉っている。

柄谷は、次のように締めている。

「われわれは先鋭的なモダニズムや革命思考の根底に、つねにこのような願望(自己消滅)嫌悪すべきあらゆる関係から離脱して「誰でもないような存在」に再生したいという「狂気」じみた願望を見出す。おそらくこの「狂気」は今後留まるところを知らず蔓延し繁殖しつづけるであろう。私が待ち望むのは、自ら「狂気」に蹂躙されながら、さらに「狂気」の内側を見届ける勇気のある文学者である」

こういった柄谷の書評は、すべて、中上と古井由吉などの内向の世代の作家群への暗の賛辞に見受ける。

しかし、どうだろう。その「狂気」に蹂躙されながらも「薬物」や「身体」への信奉を捨てないで、どうやって中上は、その「狂気」を見届けた文学者といえるのだろうと思っている。柄谷はここで神格化を行っているように思える。むしろ、私からすれば、「狂気に蹂躙されながらも狂気を見届けるような狂気」のような人間などいるほうが、よっぽど狂気じみているように思える。ここで柄谷は、まるでニーチェ的な「健康」を宿した作家こそ真の文学者であるかのように言っているが、はっきりいって夢想であるかのように見える。「狂気」の内側を見届ける勇気のある文学者などは、多分にロマンチックだと思う。それこそ「根底から人間の変容を迫られる問題」ではないだろうか。

 人間として切実で現実的ともいえるのは、安部や大江のような、「欺瞞に充ちた人間性のリアル」であって、むしろ、欺瞞的であるだけ人間的であろう。あえて、比するのであれば、中上とは「ギリシア的人間像」=ヒロイズムに近いものがある。こういった部分は三島にも通ずるのではないか。

犯罪者やマイノリティの内面に寄り添い、権力に反してみせるという一見チープでステレオタイプなそれこそ、まさに「人間的な愚かさ」といえるのなら、それは皮肉にも健康的な人間の思考そのものであろう。柄谷は、安部公房について「自己否定」=「新生」という衝迫に比して、大江の方が、よっぽど「誠実」だと言っているが、それは否定しないまでも、自己欺瞞に陥りつつも、それを認識しているだけ「マシ」だというような尺度で、優劣は付け難いように思える。ならば、中上における「ドラッグ」「セックス」など村上龍、春樹にとっても同じそれらは、自己否定=「現代文明への耽溺」とさして変わりもしない。自己消滅への衝動へとかられないだけ、たしかに大江健三郎のほうが「マシ」ではある。

もっといえば、中上は、そのような「欺瞞」を見つめようとしない。自意識は、都合よくスルーされている。ここは、ヘミングウェイ並びにフォークナー安部公房にしろ、同程度の自己欺瞞が潜んでいるというのは、言うまでもないと思う。

枯木灘では、それが克服したかのように見えるだけで、「土とまぐわりたい」という抑えられない自然と同化するような願望を隠そうともしない。セックスの衝動で自己が透明になってゆくことと血族とのリフレインがうまく両義されているという風に「見える」が、やはりそこには、都市生活者には一見分かりにくい「自然」との「不倫」がある。まぐわい、心地よさである。中上が成田の空港で肉体労働をしていたというエピソードも、ここでは、なにか頷けるものがある。

比して、古井由吉は、肉体的な解消そのものよりも、全人的な「人間観」を持っているように思える。それは、柄谷が言うところの「都市生活者」の気楽さに通づる側面を多分に含んでいる。古井の短編「先導獣の話」は次のようにある。

「あの事故が私の中に惹き起こした変化といえば、この奇妙な拡散の感覚だけである。しかしそのおかげで、私はいくらか変わってしまったように思う。私にとって、自分と内と外の区別が以前ほど定かではなくなってしまった。現に今こうしておもてでびっしり降る雨の音につつまれて仰向けに寝ていると、私はまるで自分が無数の雨粒となって汚水の中へ落ちてゆくような、そんな感じにすうっと陥っていく。おもてで俺が降っている」

 

こういった人間観は、心理学的な人間像のソレである。アドラー心理学の著者の岸見一郎は次のように言っている。

アドラー心理学のことを本来は個人心理学と言いますが、個人というのは英語で言うとインディヴィジュアルです。これは「分けることができない」という意味です。何が分けられないかというと、意識と無意識、感情と理性、身体と精神など、そういったあらゆる二元論にアドラーは反対するわけです。つまり、分割できない全体としての人間を扱う心理学ということです。(ダイヤモンドオンラインより)

古井の当初の感覚は、中上とは違って、他人と自己の分別のない全体性である。これは、安部公房のような自己の取り換えっことは微妙に違う。しかし、古井にとって、全人性とは、多分に「心理的な」人の見方でしかない。といえるのなら、これは、結局、都市生活者特有の、「気楽な」夢想の成れの果てにしか過ぎない。これを肉体と置き換えようと、セックスと置き換えようと、ドラッグで身体をねじ伏せようと、全人性への回帰という点では、似たようなものではいだろうか。自己消滅の衝動という意味では、ほとんど同じである。

岸田一郎は、この話を宮台真司との会話を受けて次のように述べる。

その流れで今の宮台さんの話を見れば、本当の自分と仮の自分なんてあり得るわけがないことになりますね。「この私」しかないということです。(ダイヤモンドオンライン)

はたして、中上にしろ、村上春樹、龍、古井にしろ、本質的に「この私」について、誠実に思考を張り巡らせた作家はいるだろうか、という疑問が生まれてくる。

そのような疑問を付さずとも、古風に私小説向きの障害児との生活を描いていた大江健三郎が、もっとも「この私」に欺瞞的でありながらも、近いところにいたように思える。いや、自身の障害児童の親という自己認識から、逃げたり、都合よく書き換えたりできない現実に直面していたのだろう。

たとえば、柄谷は、探求2で「この私」に触れて次のように言う。

「ところで、子供に死なれた親に対して、「また産めばいいじゃないか」と慰めることはできないだろう。死んだの子はこの子であって、子供一般ではないからだ」

こういった文脈に伏して考えるのなら、中上於ける「血族」「紀州」「部落」といったテーマ性は、中上における「必然のテーマ」というより、むしろ、「どうせ都会に移り住めばいいじゃないか」という慰めを一部孕んでいるテーマでしかないように思える。こういった文脈は、大江氏になぞらえて「障害者の子供がうまれちゃったのだから、また産めばいいじゃない。今の子供は忘れてしまって、殺しちゃったらいいじゃない」とか、そういうロジックは通用しない。まして、肉体労働をしても、セックスやドラッグでも、「異化」「同化」の通用のしない、「この私」を喚起するものであると思う。

実際、中上は、部落・血筋・複雑な家庭環境を捨てて、「その都会」へやってきた(新宿)。地方のしがらみから「都会」への一般性への回帰と解消、そして文明生活でのドラッグなども、結局は、「気軽な都会生活」の中に収斂してゆく。これは、単独的な問題の、一般化である。いわゆる「匿名性」のある都会においては、ただ歩いているだけでは、誰も出自を問いただされる心配はない。実際、中上は、そこに身を置いて、むしろ、自分の出自を積極的に掘り起こしたといえる。

中上は、むしろ、血族といったテーマを、フォークナーやマルケスから意識的に取り組んだ作家である。必然的に思われる「テーマ」が「文学の歴史」から柄谷の助力から「批評的に成り立ってきた」。

福田恒存は、ヘミングウェイについて次のように語る。

ヘミングウェイの人物は、ことごとく闘争的であります。自己の負った痛手を自ら無視して敵と戦います。というより、わざわざ敵を見出すといったほうがいいかもしれません。

これは、重要な指摘である。ヘミングウェイをしてロストジェネレーションと呼ばれた世代の作家が、「わざわざ意識的に見出したなにか」を描いていた部分というのは否定できず、中上もまた、「都会生活の中」でむしろ「紀州」を発見させた男である。中上にとって秋幸の『蝿の王』とは、わざわざ敵を見出した結果であると思われる。この部落的な問題とは、本当は、中上にとっては、都会生活に切り替えた中上にとって、唯一書きうる「文学的なテーマ」になりあがった部分は否めないと思っている。こういう言い方をすると、中上もまた、実際は、ロストジェネレーションの残滓であったということは、言うまでもない。

 さて、中上健次をほめちぎるというありふれた話よりも、その神格化の再点検を行って、しばらく毀損されてきた大江健三郎を再評価するみたいな文章に、「結果として」なったように思える。誰一人として「この私」など、みたこともきいたことも、発したこともない世界で、中上は「わざわざ」なんとか「悪投」を繰り広げて、大江は逃げようもない「障害児の息子」に向かい合わざるえなかった。この差は、大きかったと思う。それはこの先、どれだけ科学的にも肉体的にも文化的にも自然の中にも、それを「解消のしようのないこと」として、大江の家族にあったといえば、もっとも「血族」に苛まれたのは、中上というより、大江ではなかったのか。中上が、紀州や部落をテーマにしながら「都会の核家族」で勉強していたことは、忘れられがちである。中上は揚々と紀州へ帰って祭りに参加したり、愛憎入り乱れて、やはり故郷を愛していたのは否定できないのだ。愛の前では、障壁などないも同じである。中上は、「火」や「土」をどこか、信頼しているのである。愛憎を以って。

老獪の醜聞を生きて、いい年こいて「神経衰弱」している若々しくも老人な大江こそ、やはり戦後日本文学の雄だったのかもしれない、と柄谷から遠く離れて今日に思う。自分が言いたかったのは、「この私」など、どうあがいても、描き切れるかしれない代物でも、この私という「固有の物」彼にとってそれは、障害児の息子という切り離せないテーマを描いたところだと思う。それは、中上にとって血族が薬物とか肉体、自然と同化するような共犯関係を跳ね除ける「異なるものである」と思っている。なぜなら、自分の息子である障害児という事実を「異化」させたり、なかったことにすることは容易ではない。敵と「格闘」することでそれなりに行っている中上(それは最終的に秋幸=父でしかない。すなわち自己との闘争というありふれた決着)と、息子という敵ではない存在と共闘することは、まるで意味は違うのだ。大江には「土」も「火」もない。あるのは、「四国」に根差したいという「願望」である。大江はあえて「四国」を創造した。大江の四国に関して、次のような解説がある。

レヴィストロースの「野生の思考」を引いて、加藤典洋は言う。

「レヴィストロースは(中略)器用仕事(ブリコラージュ)ということをいい、神話的思考の本性は、それが「ありあわせ」の材料でなされる器用仕事(日曜大工的工作)のようなものであること、そうであればこそ、そこには「出来事」という要因が大きく介入しうること」

こういったことは、阿部和重にしても、ほぼ同程度の意味も持っている。

続けて

「神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現するということ」

このように、大江にしても「四国」はエンジニアの仕事のようなものであるという指摘は、言うまでもない。これは中上の「紀州」も同じである。

科学的認識と神話的なモチーフのはざまで、生を描くということは、後世の世代にとっては、「創造的」な基地のようなものであって、悪く言ってしまえばアンティークとか模造品ということも言えるはずだ。

「神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現するということ」という認識は、すでに、文学的・小説技法として一般化されているし、これは、大衆文学のような伊坂幸太郎の架空の仙台のような街だとか、ガルシアマルケスの時代から流用された「仕事」となっている。すなわち、根源を問うだとか「血筋」の手法として「一般化」されている手法といえはしないか。結局、一般化においては、「固有性」の問題を解消したかのように見えるそれも、実際は、そうではない。

つまりこのように大江にとっての「四国」とは、器用仕事の架空性も持っているがゆえに、ただでさえ薄い根拠を、より薄める力しか持ちえていない。偽としての真とも言えるような言葉遊びでしか、それを正当化できない。そういう点で言うのなら、実際に、紀州の思い出のある中上のほうが、「血」や「肉」がある点で、根源的でもあるのだ。