変わりたい「この私」はどこにいるのかという問題

柄谷行人は、探求2で、レヴィナスハイデッガーを引いて、次のような考察をしている。

レヴィナスが批判しているのがハイデッガーであることは明らかである。

ハイデッガーは、主体(主観)というような実体を否定して、無名の、かつ共同体存在としての実存に向かう。それは、いわば、実存者(存在者)から実存(存在)への道である。それに対して、レヴィナスは主体の「実体性」を回復しようとする。

それは、実は、実存が固有名を与えられることに他ならない。重要なのは、実存のこの実詞化が、他者によって命名されるということによって可能になるということだ。

それは「共同存在」ではなくて、「社会的」な存在なのである。ハイデッガーにおいても、固有名または命名の「社会性」が消されてしまう」

 

ちなみに、皮肉なことだが、ハイデッガーのそういった匿名的でありながら、無名の共同体存在としての実存を示したことは、「ハイデッガー」という固有性を表わしていると、私的には思うのだが、それはともかくとして、例えば、我々は長嶋茂雄をいやというほど知っているが、わざわざ彼は「ミスター」になる。命名されて存在しているように、自明のことと知っているが、彼は、単なるプロ野球選手の長嶋茂雄から「ミスター」として、改めて存在している。こういった原理を、共同体に依拠せずに存在するとき、はじめて「名刺」のように、社会的な存在へと人はなってゆくかのように見える。しかし、我々が「ミスター」と呼ぶとき、「それを知らないものたちは」やはり、誰かしらない。命名もまた「共同体」を依拠せずには居られないということである。

野球を知るものにとっては「ミスター」は、まぎれもない「長嶋茂雄」だが、野球をしらないものにとっては、誰かは分からない。こういった時、とくに日本において「命名の」社会的存在の依拠とは、必ずしも当たらないことは、当然のように分かる。「ネットで有名だ」としても、「ネットで有名な人間」など、いくらでもいる。そこには、代って変わる自分など、偏在していることを裏付けているし、そこに「愛称」があっても、共同体としての認識である以上は、「変わりある自分」はどこにでもあるということになる。

いわば、ネット社会においては、このような「命名」による原理は、必ずしも働かないことは、目に見える。レヴィナスを引いて命名によって固有性を獲得し、共同体に依存しない形での「命名」の出現など、どういった例を考えられうるだろうか、というところに、「この私」の存在の手掛かりがあるように思える。

例えば、ドストエフスキーラスコーリニコフは、罪と罰の作中で「なにをしているか」とどやされたとき「私は考えている」とうそぶいて見せる。これは、自律的な思考を張り巡らせて生きているという、思考の固有性=ラスコーリニコフであることを、示しているように見える。彼は外観上は学生という体面を保っているものの、体面上は社会的な存在ではない。いったい、彼は何者なのか。彼は、自分は考えているものと自称する。誰も、そんなことを真に受けない。儀礼的な社会においては「なにもしていないもの」は、いったい何者なのか。彼は、そういったところに生まれるところでラスコーリニコフなりに考えているというのだ。はたしてそれは、本当に「自律的な思考=実体」であろうか。私たちは、彼について、「実存」の手掛かりを見つけたかのような錯覚をしがちである。

彼は「社会的」である、と私は思う。彼は、実体(主観)に依拠しながら、共同体存在としては成立していない。なにも根拠としていないように見える。その思考自体も、自身によってもなお懐疑的、不信、あるいは確信を「揺れ動いている」それは、よく「心理描写」と呼ばれる代物だが、彼は、そういった自律的思考をしているように見える。悪く言ってしまえば独りよがりの、地下室の住人いわく「おれは病人である」という確信めいた相対的な見方には、「よりどこのなさ」という点では、むしろ、反社会的である。ゆえに、社会的な自律性を「根拠がない」ことによって保たれているともいえるがそれは間違いである。狂気の水準としては、地下室の住人のほうがよっぽど「病態」であるのは言うまでもない。

次のような考察がある。

ソクラテスの対話が、非対称的でありながらなお「共同体の探求」が可能であるのはなぜかを考察した。いうまでもなく、それは対話する両者が、同一の言語ゲームに属してるからだ。弁護士と検事が法廷の規則を共有しているように。」

つまり、

「白痴」であるほかないような地点が、「この私」にはあるともいえる。ラスコーリニコフの一見独りよがりで、社会に属していないかのような「思考」とは、結局は、理性=コード性を有しているがゆえに、どこまでもラスコーリニコフのような存在が社会的に作中認められないかのような存在としても、読者とラスコーリニコフのような「対話」が潜在的に存在しているということになる。理性を共有するものにとって、ラスコーリニコフほど、分かりやすい人はいないのだ。ここには、狡知的な犯罪や思想があり、フロイト的な分裂病的「非理性」は存在しないと言える。

重要なのは、次のところである。

分裂病者は、感情転移してこない。彼らは≪他者≫である。そのとき、彼らを「ナルシシズム神経症」とよぶのは、本来感情転移(同一化)するはずの者がそれを拒否して背を向けたというのにひとしい。それは、他者の超越性(外部性)を内在化(同一化)することである。」

ラスコーリニコフ的な人格において、同一化は激しいし、まだ、どこか人と繋がっていたいような情けもたくさん存在する。彼はアウトサイダー的な理性による思考を思わせながらも、なお「実存」として実体として、存在しているようで、していない。最初から最後まで、どこまでも同一のコードで存在しているように見える。重要なのは、外部性を内在化する過程であって、初めてそれを認めるのは、学もないソーニャとの接触時とみである。個体としてはラスコーリニコフは労働していないもののまだ、社会的で、外部性を認めない「自律的な思考」の持ち主であったが、ソーニャとの遭遇で、初めて超越性(愛めいたもの)を認めるようになってゆく。だが、そこで、ラスコーリニコフは、はたして外部性を「外部のもの」として関係を維持できたかは、確証が持てない。彼は「同一化」しているようにも思える。つまり、ソーニャと自分を重ねてもなお、彼は、やはり最終的に「自らを司法に委ねる」からだ。ラスコーリニコフは、悲劇的にも最後まで「理性的」なのである。ソーニャとの邂逅にも、まだ外部は見当たらないで、どこか社会的なコードに自己の存在を他律的に委ねようとしているのである。

いわば、「この私」の居所とは、そのような他力によってなお自覚しるような「私」のことではないことは明らかなであるようだ。

「この私」の自覚とは、病者=非理性を理性的に恣意的に見るだけでは能わない。それは「結果論として」他人に発見されているうちにある。理性と知性を見つけた人間にとって、「病者」との関係は「社会的」であるほかない。

しかも、そこにこの私と「病者」との同一性、ナルシシズムは起こってはいないとしても、やはりまだ、社会的であるといえる。ならば、もし、社会的な存在と言えるのであれば、もはや、「白痴」であるほかないという結論になる。この私とは無論、白痴なのである。それが、変容しようとしている、変わろうとする意志さえ、能わない、白痴(実存)というものであろうか。だが、ここで問題が生じる。「われわれ」が白痴を発見するとき、それは結局は「共同体存在」であるということだ。もし、社会的な知的水準に合わせるのであれば、それが「狐の霊」といっても「分裂病」といっても、「白痴」は結局は、社会的なのである。

私なりの結論をいえば、結局、「この私」など、夢のような存在だという他ない。いわば、「この私」とは夢のことである。それを、変容するすべなど、どこにもない。